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時雨どろっぷ


マッチ ビタミンみかん
可愛い顔してエナジードリンク並みに体力消耗するんだよな。
普段の味も良いがみかんもなかなか。炭酸が強いのは好きじゃない一方、これはちょうどいい炭酸。そして栄養補給からのバリバリ元気になる。カフェイン入ってるのかってくらい。入ってると思ってた。通常の味はカフェイン入ってるらしい。これまさか、プラシーボ効果…
ちなみに通常の味をトリスクラシックで割ると小児用風邪シロップっぽい味がして美味しいです。


衆議院選挙2024年 ボートマッチ
右も左も分からないのでお世話になってみた。
選択肢の内容もいやこれはハイかイイエじゃなくてもっとこう…みたいなのが多いし、結果も強いて言えば程度のマッチ率の差だったが、まあ普段政治無関心な輩に向けた簡易診断だったらこんなもんよね。一応先に広報見てこの人かなあと思った人とマッチしてたのでちょっと納得して入れて来ようと思う。そういう後押しとか省エネのために使うのはアリかと。どこもクソだから入れない、よりはマシだと思って許して。
でもさ、議員さんたち口揃えて減税減税ってさ、そこはもう現時点で増税しちゃったもんは良いから増税分で庶民の日常生活に近い部分の事業に金を回せって思うんだが、如何。光熱費の支払い扱う企業に金回した政策なんかは庶民も助かったし良案だったと思うんだが、素人感想かねえ…


刑事裁判はなんのためにあるのか
裁判とは事実確認である。
この前の『犯罪と社会』読了後、引き続き自習。犯罪そして裁判とは何ぞや?裁判って、被害者の感情被害を清算するものではないらしいな?というところから。
実は、刑事裁判は、被害者の復讐心を満足させるために被害者と加害者が対決する場ではありません。まず、私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題を区別することから始めなければなりません。

裁判は、そこに被告人として登場している人が、真犯人つまり加害者かどうかわからないから行われるのです。被告人が否認している場合はもちろん、仮に自白している場合であっても、真犯人かどうか慎重に調べなければなりません。間違った判決によって、刑罰が最大の人権侵害になる危険があるからです。

さらに言うと、刑事事件の法廷は、そもそも加害者が誰かを見つけ出す場ですらないとも言えます。裁判所は検察官が起訴してきた事実があるかないかを証拠によって判断するだけです。裁判官が確信をもてば有罪、少しでも疑わしければ無罪です。裁判はそれで終わりです。積極的に真犯人つまり加害者を見つけるのは、法廷における裁判官の仕事ではありません。あくまでも検察官が起訴した事実について、受け身で判断するだけなのです。
刑事裁判とは「国法を犯したとして公務員が連れてきた人物について事実を確認する」場である。警察やら裁判官やら公務員≒一国と被告人が争う上では、被告人にハンデを。それが裁判でのハンデルール。でも裁判を「加害者と被害者の争い」と見ている人からしてみれば、真っ向勝負しているはずが相手にあれこれハンデがついて刑が軽くなっていく、ってのは許しがたい八百長に見えるはず。
あくまで刑事裁判は事実確認の場。被害者の被害清算の場ではない。なら、事実確認が終わり加害者と断定された相手に対して、希望する当事者被害者も正式に参加できる、被害清算を目的とした次段階の裁きの場はあるべきではないのか…?もはや民事裁判かそれ。復讐の応酬で無法状態になるってのは分かったが、国に「喧嘩してごめんなさい」するだけで恨みを晴らす手段が何ひとつ無いのも、解決になっていないのでは?…ただ、それでも解決するかどうか。人間なんだから腹を割って話して和解しなさいって?割ってみて中身があれば良いが、なかったら諦める外にないのか。中身がないなら外身で払ってもらうしかないなあ?みたいな脳内エロ同人モブがニヤついてんだが。
ところで、古い時代は見せしめの処刑とかあったわけだが、何ていうかあれって「国にたて突くとこうなるぞ」って脅しというよりは、自分はアレとは違うって思ってる部外者たちが安全な場所から「被害者に共感することで一体感を得て、かつ、その憂さが晴れることで自分の憂さが晴れたような気になる」場だったからこそ続いたんじゃなかろうか。そういう場が無くなって新たにバーチャルにこしらえられたのが各種SNSのぶっ叩き広場。そうか、これが裁判の代替案。必要だから市民が生み出した場か。法に規定された刑罰が必ずしも重くなるわけではないが、被害者に同化した市民からの社会的制裁は重くできる、それで社会に戻ってきた加害者に不利が生じれば被害者の感情被害が清算される、かもしれない。
ついでに『大江戸死体考』て本にもインスピレーション受けたんだが、死刑にも「ただ死刑にする」と「死刑のあと(あるいは生きたまんま)人体を刃物の試し斬りに使う」という軽重があったとか。酔っておごって町人の子を殺した役人に対して、殿様が「こいつは死刑では足りん、処した上試し斬りに回せ」と判決したら被害者である親族は涙を流して感謝したとか。…裁判ってそういうイメージだったんだが、それはあくまで昔の話。現代の裁判はそういうもんじゃない、てのは重々留意しておいたほうがいいのやも。(あと死体蹴りが侮辱になるってのも相当根強い価値観なんだな。キレイに死にたいって思うのと表裏一体で。)

『恐怖の博物誌』より、やはり脅しにならない見せしめと民衆の様子
「公開の処刑は群衆を集めることには成功したが、当局が意図する教訓を彼らに伝えることはできなかった。群衆は法の威光を感じるどころか、この時とばかりに酒を飲んでは浮かれ騒ぎ、喧嘩や盗みをひき起こすしまつだった。そのうえ彼らは、絞首台にかけられようとする罪人を軽蔑しなかった。足枷台やさらし台につながれたつまらない罪人を嘲けることはあっても、死刑を受けようとする者を笑うことはほとんどなく、それどころか、まるで英雄を見るかのように喝采を送ったのである。死を前にした罪人は魅力的にさえ見えた、群衆は自分たちがこのように喜び、興奮し、陶酔に浸れるのも、みんな目の前の罪人のおかげだと考えた。
…(一七四八年に治安判事になったフィールディングは)民衆に恐怖を教えこむのであれば、公開処刑というお祭り騒ぎなどではなくもっといい方法があるはずだといい、「目の前で殺すより、密かに処刑したと伝えるほうが群衆は恐怖を感じるだろう。もちろん詩人にその腕前があればの話だが」といった」(p268)




45歳の漫画家が運転免許を取って初めてわかった「保護者の集まりで誰とも話さず立っている父親たちの境地」 車の運転をして「男性の目線で見える世界」が見えた気がした #プレジデントオンライン
気味悪い、不審な動きってのはこういうことかもしれんと。
車に乗っている状態で周りの車にビクビクしていると、車が不可解な動きになるので、逆に周りの車をビビらせることになる、「あなたは怖がってるけど、後ろの車はあなたに怖がってるんだよ」ということを叩き込まれました。

そうなのか、なるほど、車に乗った私は、歩行者だけではなく周りの車からも怖がられる存在なのだ。そう理解しても、どうしてもこわい。ぶつかってしまう、というより、ぶつかってこられるのでは、という種類の恐怖が抜けませんでした。
…女性に比べて男性は「他人に危害を与える恐れのある車に乗っている状態」に近い感覚を幼い時から持たされやすい性別であると言えるのではないでしょうか。

そういった社会的な教えの中で男性という性別に属する人たちの多くは「ビビらせるくらいなら余計なことはしないほうがいい」という感覚を同時に養っていくのではないかと想像しました。「何もしない」「動かない」というのは、危害を加えやすい側の、最善の安全対策でもある場合があるからです。
自分よりも力がある生き物が不可解な動きをしていると怖いってのは、弱者にしてみれば、何がどうなるか、何をされるか分かったもんじゃないから。どっかで見聞きした、独裁者が恐れられる理由ってのも確かそんなんだった気がする。懲罰を与えうる存在でしかも何の気まぐれで殺されるか分からないから、まるで神様みたいに畏れられるのだと。
(自分にしてみれば)言動の分からない存在を気色悪い≒怖いと思うのは、被害が予測できないから、懲罰の発動条件が分からないから。それに裏を返せば、そういうヤツがいたら自分は懲罰を与えられる側になるだろうと反射的に思い込んでいるから、でもある。…もうちょっとこう、抜け出したいなあ…今は理解できないというだけで、全部が全部処刑人ではないし、真っ向勝負しても必ずしもそいつから罰せられるわけではないし。
…という反省もしつつ読んだ。「侍マインド」という表現、確かにああーなるほどそうかも…!と思った。同じ自信に満ちた雰囲気でも、人を見下した上での無駄な自信に見える人もいれば、落ち着いた毅然とした態度に見える人もいるが、そういう根本の違いかもしれん。いやちょっと理想論か、自分が後者の侍に憧れるばかりに。
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