落ち葉舞う頃 -みとせのりこ
何でエロゲのOPソングなんて知ってんだって野暮な質問は無しだ。
秋になってきて街路樹が赤とか黄色になってくるとふとタイトル思い出して聞きたくなる。サビの入りの盛り上がりが何度聞いても鳥肌。すっごい良い。喉の開いた裏声でも絞ったシャウトでもなく、楽器が自分の音域をのびやかに出してるって感じの高音がほんと好き。
『ニヒリズムとテクノロジー』ノーレン・ガーツ
かつて読んだ哲学概論系の本よりもずっと分かりやすい件。
自分で決断するのが嫌、自分の人生の責任を負うのが嫌、自分の無能無力を認めるのが嫌、など「人間として存在していることに嫌気がして、感じず考えず無気力に、他人任せで人間生活をやり過ごそうとする」という態度がニヒリズムから起こる。そして、そんな風に自暴自棄になった人間を、キリスト教世界では僧侶たちが「自分を律しなさい」「隣人に優しくしなさい」と、禁欲と道徳価値を説いてなだめおさめていた。
現代ではテクノロジーが自暴自棄のはけ口となっている。ネットや動画を見ていれば嫌なこと考えなくていいし、自分で自分をどうするか決めるのではなくデータに決めてもらえば楽だし、ネットを通じて物を貸してあげたり寄付してあげるとエラくなったような良い気分だし、SNSでいつでも集団に属していれば安心だし、現実と違ってネット上で人に酷い仕打ちをしても罪悪感ないし楽しいし。
…とまあそんな感じで、ニーチェが論じたキリスト教道徳と人間の関係についての哲学を応用して、テクノロジーと人間の関係について考察してみたという本。ニーチェの引用をもとに哲学をざっくり説明する部分は、ああやっぱり人間って無理だよなあ、所詮は畜生だよなあって妙な安堵を覚える。瞑想やマインドフルネスの、思想はさておき「心を無にする技術だけ」もてはやされるというのも、感情や無力感を感じたくないだけのこと、という理論にははっとさせられた。
400ページ超の単行本なので少々根気が要るが、一個一個の章はすいすい読めて、皮肉な内容にぐさっとされもして、読了後の何となく分かった満足感は高い。あくまでも何となく。
ダイソー 高反発スポーツインソール
低反発と高反発、枕でも悩んでんのに靴の中でも悩む。
今まで自分の靴の目印代わりにプリントインソールを使っていたんだが、すぐにプリント層がべろべろはがれて寄れて履き心地悪かったので、層がはがれなさそうなやつを。今のところ快適。もうちょっとだけ横幅があれば完璧なんだがなあ、というのはありつつ、まあこんなもん。
「性犯罪の冤罪における非対称性」
名誉って難儀。
裁判は事実の確認場所。ならば事実が確定した後に被害者の憂さ晴らしの場が必要かもしれない。で、しかも傍から見てる社会からしたら刑罰じゃとても晴らし足りないので、SNSというぶっ叩き場で名誉棄損の社会的制裁を科す。
ただこれは、加害者が(全くもって、あるいは公開されている情報やSNS上のみんなの推測ほどの)加害者じゃなかった場合のことは全く考えていない。それどころか、訴えた被害者がいない、事実確認をする裁判さえ開かれていない、というのに散々ぶっ叩かれるという状況さえ起こっている。ぶっ叩かれている側は裁判で無罪を主張することもできず、逆に「名誉棄損されました」と訴訟を起こし、その訴訟が筋の通った話だということを人々に「説得」しなければ活路がない。
…という話。何かこれ、いじめ被害と構図は一緒だな…いじめた側には何の労力も必要無くて、いじめられた側が一生懸命説明して名誉を取り戻そうとするの。というよりは、現状を変えたい人が多大な労力を払う必要があるってのはどこでも普遍か。
そもそもは当事者が納得いく形で解決されたらそれで話は終わりのはずが、当事者外の人が被害者に同化し過ぎて、野放しで生かしておけば私にも被害を与えるに違いない!と躍起になり過ぎてしまうのが問題なのか。小さな村の中での話なら排除したい気持ちも妥当かもしれないが、村外の物理的に遠い人まで排除しようとしてたらキリがない。どこまで遠くの人を警戒したら安心できるのか?
村八分どころか、世界中から人が住む「ネット村」からの排除。現実のどこのお国に流されても誰かしら「ネット民」がいて、また追い出されて、どこにも生きられない。それだけの仕打ちをした相手に、それだけの罪がなかったら?というか「罪」なんて言い方お上品に取り繕ってるだけで、「殺したいけど殺しちゃいけないから」罪って理由をつけて、「殺すために」いじめるってだけなんだろうけども。
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